『私』を作っていた物が『趣味』だった話。

先日『好きが義務になった』というブログで" 桜田が一番であった私 "が消えてしまった話をしたが、桜田への熱量が減った今の私の状態から、桜田通という俳優がどれだけ私の生活の中心であったのかを実感した。

 

そもそも、私がツイッターでリア垢以外のアカウントを作ったのは自分の趣味についてひたすらに荒れても誰にも迷惑をかけない場所を作ることが目的だった。(正確に言うと桜田を知る前から別趣味の方と繋がる為に作っていたアカウントだったものを、その界隈の方々との繋がりを全て切って趣味用アカウントに変えた。)

そのアカウントは今でも本垢として趣味以外でも呟きたいけどリア垢で友達に向けて呟くほどの事でもないような超どうでもいことを呟いている。

しかし、最近の私は以前の桜田を好きだった頃と比較すると1日あたりのツイート数が明らかに減っていることに気がついた。

趣味用のアカウントに変えた時にそれまでのツイートを全て消したので、アカウントの全ツイート数を、桜田を好きになってからの日数で割ってみると、1日平均で14ツイートをしていた。

多少の落差はあったのでほとんどツイートしない時もあれば1日40ほどツイートする日もあったが、平均して14ツイートしていたと知りなかなか驚いた。

 

しかし、ここ1ヵ月ほどの私は私生活が忙しくなり始めたこともあるが、3日ほど何も呟かないこともザラで、多い日でも3個ほど連投して終了だ。

 

こう考えると、私は今まで桜田通が中心の生活を送っていて、常に桜田通のことを考えていたと気づいた。

もちろん他のことを考えることもあったが、数分後には桜田の事でキャーキャー言っていたような気がする。

 

そもそも『趣味』という範囲の俳優にそこまで生活を侵食されていたことにも驚いたが、その『趣味』の部分が大きく穴の空いた今、『私』という人間の生活がどれだけ代わり映えのない、取り立てて呟くこともない繰り返しの生活だったかを思い知り、軽く絶望した。

 

『絶望って大袈裟かよ』とも思うが、実際、それくらいの衝撃はあった。

『趣味』がない生活は本当に毎日代わり映えのない、事務的な毎日だった。

行くべきところへ行き、するべき事をして、帰るべき場所に帰り、誰かに伝えたいような "何か" は無く、友達と久しぶりに会った時でさえ、話したいことが何も浮かばなかった。

取り立てて不幸なことも無ければ、幸せだと思うこともない。

感情が上下する瞬間が『私』の生活にはなかった。

 

私が『趣味』にのめり込むのは、『私』では決して得られない喜怒哀楽の感情を、趣味を通して得ることが出来たからだったのかもしれない。

 

桜田通に新しい仕事が来れば喜び、

桜田通に嫌なことがあれば一緒に怒り、

桜田通に会いに行けない時が続けば哀しみ、

桜田通のイベントや活動を見れば楽しめた。

 

私の喜怒哀楽の根源は『趣味』で、桜田通であった。

 

 

 

 

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と、ここまでが数ヶ月前に書き溜めしておきながらもオチがつかずに公開していなかった記事なのだが、久しぶりに読んでみたらまさにその通りだな、と感じたので公開したい気持ちになった。

 

この記事を書いて数ヶ月経った今、実は桜田のモチベーションはかなり高い。

 

自分というものを見つめ直した時に、"桜田通"という『趣味』の存在があまりにも大きかったことに絶望すら覚えたが、私はこれから先もきっと趣味に依存して生きていくのだろうと思う。

 

親には『そんなものにお金を使っているのはお金をドブに捨てるようなものだ』と言われているが、私はそうは思わない。

私が『趣味』を捨てたら、『私』という人生は本当に楽しみも何も無い人生であったと確信できるからだ。

 

私は見返りなど得られなかったとしても趣味にお金を使うことで"幸せ"を買っていると思っているし、その行為が周りから見てどれだけ無意味でお金の無駄遣いだったとしても、私の中でその瞬間は人生を豊かにするものであり、私の人生で最も輝き胸を躍らせる瞬間であることに変わりはない。

 

 

私の『趣味』は、いつか桜田通や金子大地から移り変わって、俳優とは全く関係の無いものになっているかもしれない。

そうなった時に今まで彼らに使ってきたお金は確かに無駄になるかも知れない。

それでも私は、"幸せの瞬間"を買うために使ったそのお金を決して後悔はしない。